お盆休みを利用して、山口県を旅行してきました。近年は西日本方面への商用出張(その合間に短時間の小観光)も増えましたが、今回は珍しく観光だけが目的の旅行。身体にも優しい旅となりました。
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個人を特定できないよう通行人の方達の顔部分を加工してあります。不都合がございましたら、当社にご連絡ください。
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1:回天記念館。周南(しゅうなん)市の大津島には、「回天」訓練基地跡あります。人間魚雷「回天」は、大量の爆薬を搭載した魚雷を人が操縦して、敵艦である米軍艦船に体当たりして自爆し敵艦に損害を与えようとする特攻兵器の一つです。搭乗員となる若者達の生還の見込みは最初から皆無(考慮外)で、命と引き換えにする文字通りの自爆攻撃兵器でした。
2:同じく、回天記念館。
回天記念館は、大津島の回天訓練基地跡近くにあり、1968(昭和43)年に開館しました。
人間魚雷「回天」に関わる貴重な資料が数多く収蔵展示されており、歴史を真摯に学ぶ施設としてとても大事な場所だと思います。
3:同じく、回天記念館。
訓練を受けた回天搭乗員は1375人。その大部分が兵学校・機関学校・学徒召集等の予備学生・予科練出身で、20歳前後の若者達でした。回天による戦死者は145人、平均年齢21.1歳だったそうです。
4:同じく、回天記念館。
5:同じく、回天記念館。
6:同じく、回天記念館。
7:同じく、回天記念館。
8:同じく、回天記念館。
9:同じく、回天記念館。大津島の回天訓練基地ジオラマ。
10:同じく、回天記念館。
11:同じく、回天記念館。
12:同じく、回天記念館。
13:同じく、回天記念館。
14:同じく、回天記念館。
15:回天記念館近くのトンネル壁面の写真パネル。
回天訓練基地へ調整工場から回天を運んだトンネル内。壁面に当時の写真資料が展示されています。なお、当時の特攻兵器の例にたがわず、回天も軍事機密でした。
16:同じく、回天記念館。回天を輸送し発進させる潜水艦の多くが撃沈され、その損耗率は非常に高いものでした。
17:同じく、回天記念館。
18:同じく、回天記念館。回天の操縦は特殊で他兵器へ搭乗員転用ができず、軍事機密ということもあり、搭乗員全てが回天のために選抜されて訓練を受けた優秀な若者達でした。
19:同じく、回天記念館。
20:同じく、回天記念館。
21:トンネル。
回天訓練基地へ調整工場から回天を運んだトンネル。
22:同じく、トンネル。回天による攻撃は49回、つまり49人の若者が出撃したわけですが、その戦果は芳しくありませんでした。現時点で判明している戦果は、護衛駆逐艦や給油艦など撃沈3隻、大破1隻、小破4隻。もちろん、敵艦に乗っていたアメリカの若者達の多くも海の藻屑と消えたわけですが・・・。回天を運んだ潜水艦の損耗率の高さ、回天発進できないまま輸送中や基地での戦死者も加えると日本側の人的被害は甚大でした。なお、回天母艦の潜水艦・伊58潜が、天候のため回天発進は館長判断で中止したものの、アメリカ重巡洋艦インディアナポリスを通常の魚雷で撃沈した史実が知られています。インディアナポリスは広島・長崎を壊滅させた原子爆弾をテニアン島に輸送した帰路にありました。
23:同じく、トンネル。回天の多くは、母艦となった潜水艦とともに撃沈されたり、潜水艦から発進するも故障等で座礁自沈、敵艦へ接近を試みるもあえなく撃沈されるなど悲惨な最期を遂げました。陸上基地からの出撃訓練や、残存する旧式艦船(巡洋艦や駆逐艦、輸送艦)からの発進訓練も行われましたが、輸送中に撃沈されるなどするうちに8月15日を迎えました。
24:回天訓練基地跡。
25:同じく、回天訓練基地跡。
26:同じく、回天訓練基地跡。
27:同じく、回天訓練基地跡。
28:同じく、回天訓練基地跡。
回天の命名者は、当時の海軍特攻部長・大森仙太郎(1892-1974、おおもり・せんたろう。最終階級は海軍中将。特攻部長時は少将)で、幕末期の軍艦「回天」より取ったそうです。開発の中心的役割を果たしたのが黒木博司(1921-1944、くろき・ひろし。最終階級は海軍少佐。回天開発時は大尉)と仁科関夫(1923-1944、にしな・せきお。最終階級は海軍少佐。同)でした。
29:大津島の歓迎看板。「回天の島」という看板には複雑な思いも・・・。
30:大津島の観光案内図。
31:フェリー新大津島。徳山港の沖合約10にある大津島各港(4港あります)と徳山港と結ぶ離島航路に就航している船の一隻です。