今回は、ルドヴィート・カンタ氏と共に宮城県を訪問しました。
女川町の状況。言葉がありません・・・。
仙台から女川まで約2時間半かかりました。自衛隊や救援関係の車で混雑していたり、徐行しなければならない路面損壊箇所があったりして、震災前よりも相当時間がかかる状況だそうです。
女川町の状況。
自衛隊が道路上や周辺の瓦礫を撤去してくれましたが、他はご覧の通りです。震災直後から見れば道路上以外の瓦礫も相当片付き、状況は徐々に改善しているそうです。しかし、本格的な復旧復興は手付かずと言ってよい印象でした。
建物の屋上まで、津波により完全に水没したそうです。津波で流されてきた車が屋上にひっかかったままの建物が複数あります。
女川町の状況。
津波により、完全に横倒しになってしまったビル。
女川町の状況。港の光景。海底には大量の瓦礫が沈んでいるそうです。
津波は、このビルの屋上を超えました。
津波が襲来した時、この建物は水中深くに没したそうです。
女川町立病院。
おおよそ岸から150m、海抜約16メートルの高台にあります。しかし、病院建物の1階が津波で水没してしまったそうです。津波襲来時に病院にいた人々は階上に上がってかろうじて難を逃れたとのこと。
奥の高台の上に建っているのが女川町立病院。
病院があった高台に避難してきていた人達の多くが、押し寄せた津波と強烈な引き波でさらわれてしまいました。病院内にいた人達は、その光景を目の前で見ながら何もできなかったそうです。
同じく、高台に建つ女川町立病院。津波は私が立っている場所の十数m頭上にまで到達しました。
同じく。このあたりも完全に水没した地域です。
女川町の状況。奥の建物も完全に水没し、内部はめちゃくちゃになっています。
女川町の状況。
女川町の状況。この車の持ち主はご無事でしょうか。
女川町の状況。海から相当離れているのですが、津波により漁船が打ち上げられています。
女川町の状況。
女川町の状況。震災から3ヶ月もたつのに・・・。
黄本氏から女川町の被災状況の説明をうけるカンタ氏。この後で訪れた石巻市ほどではありませんが、津波が残したヘドロの強い臭気と粉塵が充満していて、マスク無しでは厳しい環境です。高温多湿の梅雨や盛夏での感染症が懸念されます。福島県を中心にした放射能汚染地域と同様、現時点で政府がなんらかの根本的対策を検討した形跡は残念ながらないようです。「棄民」という、民主主義国家で絶対にあってはならない事態が現実味を帯びてきているように感じてなりません。
※この写真は黄本氏提供。
女川第二小学校にて、先生方と。
音楽室が会場。演奏するカンタ氏。
演奏するカンタ氏と、聴き入る子供たち。
カンタ氏と花ちゃんが女川第二小学校の校歌を伴奏し、皆さんで校歌を合唱。
女川第二小学校で演奏するカンタ氏親子。
※この写真は黄本氏提供。
カンタ氏と花ちゃんの伴奏で、女川第二小学校の校歌を合唱する皆さん。
同じく。
先生のお一人から、お礼の挨拶をいただきました。
「"熊蜂の飛行"の演奏では、情景が目の前に浮かぶようで感動しました」
演奏会に参加した中学生の少年。
急遽、何か感想を言うようにと先生から指名され、照れながら、「素晴らしい伴奏で校歌をみんなで歌えて良かった」と。そのはにかんだ笑顔を見て、今回企画を実行して良かったと内心安堵しました。
女川町の被災状況(2011年6月8日現在、宮城県発表)
死者488人・行方不明454人。
避難者は町内14個所の避難所に1,337人。
家屋全壊4,372戸、半壊・破損718戸、床上床下浸水多数。
市街地の大部分が水没。
政府がようやく出した復興計画?の筆頭に、大震災のモニュメントとか記念公園を作って被災状況を後世や世界に伝えるものの建設が提言されているという記事を読んで強い違和感を覚えました。そういうものもいずれは必要なんでしょうけれども、今回訪問で私が感じた被災地の現実からあまりにも遠いように思います。今一番重要なのは何なのか、為すべきことは何なのかという判断力そして実行力・・・、今の政府にはこれが全く無いのではないかと。
何をおいても先ずは復旧、被災者の方たちの生活を平常に戻すこと。これが軸になっていない復興プランはあり得ないのではないでしょうか。思いついた”アイディア”を机上で弄び現場に混乱と停滞をもたらすだけならまだしも、大震災を特定の政策実現(震災復興とは関係ない上に異論が多い)や政権延命の絶好の機会と捉えている最高権力者が万が一いるとすれば、トップとしての能力や見識以前に人間性すらをも疑わざるを得ません。