ストラディブログ
欧羅巴徒然紀行
November 6, 2008

番外編・社員旅行-タイその2 2008.09.30-10.04

2008年10月、恒例の社員旅行でタイへ行ってきました。

プラ・シーラッタナチェーディー
バンコクにある有名なエメラルド寺院(通称ワット・プラケオ)、正式名ワット・シーラッタナーサーサダーラーム(Wat
Phra Sri Rattana Satsadaram)の金色の仏舎利塔です。
チャオプラヤ川のほとりの王宮内にあります。この塔は、 ワット・プラ・スィ・サンペットの仏塔をモデルにしたそうです。

トンタラホテル(Tongtara Riverview Hotel)。
今回宿泊したバンコクのトンタラホテルです。エントランス付近にて。名前の通り、チャオプラヤ川を一望することができるホテルです。

チャオプラヤ(メナム)川の遊覧船。
チャオプラヤ川の遊覧船に乗り、水上より

チャオプラヤ川(メナム川)の遊覧船から見た風景。

ワット・アルンラーチャワラーラーム(ワット・アルン、暁の寺)。
大仏塔より見たチャオプラヤ川(メナム川)。対岸にワット・ポー、王宮、エメラルド寺院などが見えます。

ワット・アルンの大仏塔より王宮を見る。

ワット・アルンの建造物群。

ワット・アルンの大仏塔。
この大仏塔があるワット・アルンラーチャワラーラーム(暁の寺)は、一般にはワット・アルン(Wat Arun)と呼ばれます。アルンは暁という意味だそうで、英語表記はTemple of Dawn。三島由紀夫の小説「暁の寺」の舞台にもなりました。
ワット・アルンの大仏塔(高さ75m、台座の周囲は234m)は19世紀のラーマ2世が建設を開始し、ラーマ3世の時代に完成。表面には色鮮やかな中国製の陶器がはめ込まれ、中国美術の影響を強く受けています。仏塔の頭頂部は、バラモン教のシバ神の象徴であるリンガ(男性器の象徴)の形となっているそうです。大仏塔の周りには4基の小仏塔が立っていて須弥山を表現しているそうです。

ワット・アルンの歴史はアユタヤ朝時代に遡ります。トンブリー王朝タークシン王が守護寺院にして拡張、チャクリ王朝の時代にも拡張されました。チャクリ王朝(現王朝)の創始者ラーマ1世は、トンブリー王朝時代の1779年にタークシン王の命を受け、ヴィエンチャンを攻略。その際、戦利品として持ち帰ったエメラルド仏がこの寺院内に安置されました。しかし、1782年にチャクリー王朝ができ、エメラルド仏はラーマ2世によってエメラルド寺院に移されました。

ワット・アルンの創建についての記録は未発見ですが、アユタヤ朝の頃には建っていたそうです。当時の名称はワット・マコーク。後にワット・マコークノーク、ワット・マコークナイと改名。アユタヤ朝滅亡後、この地にトンブリー王朝を築いたタークシン王により王宮寺院として修復され、ワット・ジェーンに改名しました。ワット・ジェーンは、ラーマ2世により1820年に現在の名前に改称。トンブリーで朝日が最初に差し込む場所であったことから、ヒンドゥー教の暁の神アルナにちなんで名づけられたと伝えられています。以降、ラーマ2世の菩提寺となりました。

再びチャオプラヤ川の遊覧船に乗り対岸へ。水の色は茶色く濁っています。川の中に大きな魚がいるようです。

王室御座船博物館(Royal Barge National Museum)。
チャオプラヤ川の西岸(王宮の対岸側)にある博物館です。王室の記念式典の際に行われる御座船8隻が格納、展示されているそうです。チャオプラヤ川の遊覧船から、展示されている御座船の船首部分が見えました。■王室御座船博物館1

■王室御座船博物館2

チャオプラヤ川の遊覧船より見た光景。

王宮。
衛兵の行進を見ることができました。

ワット・シーラッタナーサーサダーラーム(Wat Phra Sri Rattana Satsadaram)。
通称、エメラルド寺院(ワット・プラケオ)。1782年、チャクリ王朝始祖ラーマ1世はトンブリーの対岸にあるバンコクに遷都。1784年に王朝の守護寺としてワット・プラケオを建立しました。当時の建築技術を最大限に利用して建設されたもので、王宮敷地内にありプロマピマーン宮殿やチャクリー宮殿などと接しています。王室専用の仏教儀式の場であり、タイで最も格式が高い寺とされています。現在は観光地にもなっています。落成時に、ワット・アルン(暁の寺)にあった小さなエメラルド色の本尊がワット・プラケオの本堂に移され、現在も厚い信仰を受けています。

エメラルド寺院(ワット・プラケオ)の本尊。
本堂には、本尊エメラルド仏が安置されています。この像は紀元前に北インドで作られ、幾多の王朝の戦いに巻き込まれ数奇な運命をたどってワット・プラケオにきたもので、タイで一番重要な仏像とされています。

パタヤの民族舞踊ショー。
バンコク観光の後、パタヤへ移動しリゾート気分を満喫しました。

同じく、パタヤの舞踊ショー。

Green Park Resort Pattaya。
パタヤで宿泊したホテル、グリーンパークリゾート・パタヤです。木々に囲まれた広いプールがあり、のんびりとくつろげました。

グリーンパークリゾート・パタヤのプールサイドで見かけた鳥。

バンコク・スワンナプーム国際空港。スワンナプーム国際空港はバンコク市街地より30kmに位置する新空港です。空港内のコンコースにはナーガ(蛇神)の像らしきものが置かれていて、記念撮影のスポットになっていました。
この後、帰途につきました(成田経由)。
今回の社員旅行は念願のアユタヤ遺跡見学が実現し、とても充実した旅になりました。社員たちは本場のタイ料理を堪能できて、遺跡や寺院建築よりも料理に感動したようですが。

現在のタイ王朝
1767年にアユタヤ王朝がビルマ軍により滅ぼされた後、タークシン将軍が残存兵力を集めて反撃しアユタヤを開放しました。しかし、アユタヤは徹底的に破壊されていたため再興をあきらめ、トンブリー(チャオプラヤ川=メナム川の西岸にしてバンコクの対岸)に遷都しました。その後、ビルマの再侵攻や、周辺諸国との対立が重なり、その心労でタークシン王は精神錯乱に陥いったと伝えられています。1782年、王の息子チャクリ将軍(後のラーマ1世)は王を見放してクーデターを起こし、タークシン王を処刑、対岸のバンコクに遷都してチャクリ王朝(バンコク王朝とも呼ばれる)を築きました。その王朝が今も続くタイ王室です。現在のタイ国王はラーマ9世プーミポン・アドゥンラヤデート(1927-)、チャクリー王朝9代目にあたります。
トンブリー王朝を築き一代で自滅したタークシン王は中国人で、本名は「鄭昭」だったと伝えられています。ラーマ1世も本名が「鄭華」で、チャクリ王朝は「鄭」一族による華僑系王朝だと言えるかも知れません。ちなみにラーマ1世は即位時に中国の清王朝に朝貢し、王位を認められていますが、当時、アジアのほとんどの国が清の冊封体制に入っており(例外は日本とムガル帝国のみ)、チャクリ王朝が特に強く清に隷属していたわけではありません。アユタヤ王朝にしても中国の雲南省付近にルーツがあり、タイ国民の多くが過去500年間に雲南省付近から移住してきたシャム族です。日本と同じ立憲君主国で国民が今も皇室・王室を敬愛し、アジアで第二次世界大戦前に名実ともに独立を維持していたのは日本とタイだけという共通点はありますが、タイは日本とは全く異なる歴史的背景をもった国です。
前大戦開戦時、日本はタイに侵攻し、相当の被害を与えてしまいまいした。(泰緬(たいめん)鉄道建設時の捕虜酷使などもありました。)日本軍とタイ軍とは、間もなく停戦が成立、1941年に日タイ同盟条約が調印されました。一方で、タイ政府はアメリカや抗日組織とも接触を保ち続け二重外交を進めました。日本の敗戦が決定的になると、タイ政府は戦争終結後を視野に入れ連合国側に接近。日本人からすれば複雑な思いを禁じえないのですが、独立をかけた、したたかな外交には学ぶべき点があるように思います。 

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