ストラディブログ
弦の細道
July 24, 2008

群馬-富岡製糸場 2008.05.08

2008年5月7日と8日の両日、商用で高崎を訪問しました。その帰途、富岡製糸場を見学してきました。

旧富岡製糸場。
富岡製糸場は1872(明治5)年、明治政府が群馬県富岡市に設置した製糸場です。主要建造物は、ほぼ建設時の状態で良好に保存されているそうです。
富岡製糸場は、当時、最大の輸出品であった生糸の品質と生産量を上げるために政府が建設した模範工場です。フランス人ポール・ブリューナ(Paul Brunat)がこの地を選定し、1871年着工。翌年に竣工し、10月より操業が開始されました。繭を生糸にする繰糸工場には300釜の繰糸器が置かれ、約400人の工女達が働いていたとされます。「お雇い外国人」の指導の下、当時としては優れた機械設備を導入したため、品質の良さで海外でも評価されたそうですが、経営は赤字だったようです。
1893(明治26)年)に三井家に払い下げられ、1902(明治35)年)には原合名会社にさらに譲渡されました。御法川式繰糸機による高品質生糸の生産や、蚕種の統一などで注目されました。
1939(昭和14)年には当時国内最大の製糸会社であった片倉製糸紡績会社(現:片倉工業株式会社)に譲渡されました。その後、長年に渡り生産を続けましたが、1987(昭和62)年3月に操業停止し現在に至ります。

東繭倉庫。
富岡製糸場の繰糸場、東・西繭倉庫、事務棟(2・3号館)、ブリューナ館等の主要建造物は、ほぼ建設当時の姿で良好に保存されています。
2005年7月に「旧富岡製糸場」として国史跡の指定を受け、翌年7月に繰糸所や東西の置繭所など1875年以前の建造物が国指定重要文化財に指定されました。全ての建造物は2005年9月に富岡市に寄贈され、2005年10月からは富岡市が管理しているそうです。非西欧圏に現存するものとしては最古・最大の民族資本による工場史跡とされています。

展示室。各種パネル等で富岡製糸場の歴史が説明されています。

富岡製糸場の全景図。

富岡製糸場の全景写真。

当時の伝統的な糸取り作業の様子。

西繭倉庫。

繭の乾燥場。

繭の乾燥場の様子。

煙突。

今も残る煙突の全景。

西繭倉庫の説明板。

西繭倉庫。

東繭倉庫の説明板。

東繭倉庫の中門にある石額。操業開始年です。

3号館の説明板。

東繭倉庫。
フランス積み(フランドル積み。各段に長辺(長手)と短辺(小口)が交互に並ぶように積む方法)と呼ばれるレンガ積みが特徴的です。この積み方は富岡製糸場の建造物に共通して見られるもので、日本では明治初期(明治20年代以前)の建造物でしか見られないそうです。

繰糸場の説明板。

 

繰糸場の内部。

繰糸場の天井。

繰糸場の構造断面模型。富岡製糸場の建物はの工法は「木骨煉瓦造り」だそうです。江戸時代の建築技術を継ぎ、木材で骨組みを建造。屋根は瓦葺き。骨組みの間は煉瓦でフランス積み(フランドル積み)、鉄枠のガラス窓や観音開きのドア(部品はフランスから輸入したそうです)。和洋折衷の大建造物と言えます。

繰糸場の展示パネル。

同じく展示パネル。
ブリューナ・エンジンは、煮繭場と繰糸鍋の湯を沸かすために設置された蒸気機関だそうです。

同じく繰糸場内部。
木造の独特な骨組みが興味深いです。

繰糸機。

横田(和田)英の紹介パネル。
工場操業にあたって政府は工女を募集しましたが、工場を指導監督する「お雇い外国人」に対する偏見や恐怖からなかなか人が集まらなかったそうです。そこで政府は近隣各県に人数を割り当て、士族の娘なども積極的に集めました。そのなかには、信州・松代町の士族の娘である横田英
(結婚後に和田姓に。1857 - 1929)もいました。彼女は明治6年3月から約1年3ヶ月間働き、最新の製糸技術を学びました。その時の経験を後に「富岡日記」として記録に残したことで有名です。信州に戻った彼女は、富岡で学んだ技術と知識を活かし、地元製糸工場「六工社」で指導的役割を果たしました。
彼女の生家は今も長野県松代町で保存され、国指定重要文化財に指定されているそうです。※「工女」といっても後の「女工哀史」で描かれたようなものとは全く異なり、新鋭工場の一線に立つ専門職的な地位だったようです。専門技能職としてのプライドを持って意気軒昂と働き、待遇改善のためのストライキを先導することも辞さなかった彼女たちの姿には新鮮な感動を覚えました。

ブリューナ館の説明板。

ブリューナ館。

レンガ積排水溝の説明板。

2号館の説明板。

敷地内の様子。右手前が2号館、右奥が3号館。

明治天皇行啓記念碑の説明板。
現在、地元では富岡製糸場とそれに関連する絹業文化遺産を世界遺産に登録しようとする運動が富岡市を中心に行われています。2007年1月、文化審議会文化財分科会において「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産暫定リスト※に加えられました。
なお「富岡製糸場と絹産業遺産群」の対象には中心となる富岡製糸場以外に、群馬県内の養蚕関係の各史跡、旧甘楽社小幡組倉庫、流通関連史跡が含まれています。流通関連史跡としては旧上野鉄道関連施設と、有名な碓氷峠鉄道施設があります。※世界遺産暫定リスト
世界遺産登録に先立ち、各国がユネスコ世界遺産センターに提出するリスト。各国はこのリストから10年以内をめどに世界遺産委員会へ登録推薦を行う。国がユネスコ世界遺産センターへ登録推薦を行った後、文化遺産候補については国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が現地調査を行い評価報告。それを基にユネスコ世界遺産センターが登録推薦を判定し、推薦物件について世界遺産委員会が審査を行い登録可否を決定。ただし、「石見銀山遺跡」が登録されるまでの紆余曲折(ICOMOSが一度、登録延期勧告)、「平泉―浄土思想を基調とする文化的景観」の登録延期(4段階評価の下から2番目で事実上の落選。登録されなかったのは日本では初)等に見られるよう、見通しは必ずしも明るくないようです。
日本からの推薦が相次いで厳しい経緯・結果となった背景として、世界遺産が830に達して管理が大変になりユネスコ・ICOMOSが登録抑制に方針転換していること、産業・文化遺跡についての評価基準が西欧中心になっていること、日本からの情報発信が不足していること、日本の推薦対象の保存・整備が不十分なこと、文化庁が全国自治体に推薦リストを応募させた結果として一種のブーム状態となってしまったこと等々が指摘されているようです・・・。

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