備考
証明書 : Andreas Woywod
Bernhard Simon Fendt(1800-1852、ベルナルト・サイモン・フェント)
Bernhard Fendtの四人の息子(いずれも弦楽器製作者になった)の長兄です。1800年、ロンドンで生まれました。1809年から1823年頃まで、John Betts(1755-1823)工房で父Bernhard Fendt(1776-1832)の下で働きました。古い弦楽器を扱う楽器商Charles Joseph Farnと提携。1832年、フィンチ(Finch)通りでGeorge Purdyと共に"Purdy and Fendt"の名前で店を始めました。1843年、Haymarketに支店を出しました。そして最後はソーホーのディーン(Dean)通り74番地に店を出しました。1852年、ブロンプトンのスミス通りの家で亡くなりました。
彼は古今東西で最も有能な模倣作家の一人でした。ガルネリ(彼が主に見本とした)のレプリカを大量に作り、またストラディバリウスモデルも多く作りました。彼が作った模倣楽器は、ラベルに至るまで、非の打ちどころがなく偽りのなく完璧なものでした。あまりにも完璧で、後に最も鋭い専門家をも欺いてしまうほどでした。彼の作品よりも優れた仕事は想像もできませんし、彼の迅速で卓越した技量はあらゆる点で意匠の巧みさに符号するものです。技能のあらゆる源泉が彼の手に宿っていました。
Bernhard Fendt(1776-1832、ベルナルト・フェント)
スイスのインスブルック生まれ。Francois Fentの甥にあたります。7歳の時にパリに出て、Francois Fentの弟子になりました。1798年にロンドンへ移住し、Thomas Dodd(1764-1834)の下で約11年間働きましたが、その工房にはJohn Frederick Lott(1776-1853)がいました。1800年にJohn Betts(1755-1823)の工房に雇われました。1832年にロンドンで死去。彼はStradivariusモデルを積極的にとりいれましたが、いくらか彼自身の個性も表現しました。いずれも非常に洗練されたもので、細部まで高い水準で仕上げられ現代でも高く評価されています。その音質については、クレモナの名器よりも洗練されていると評価する意見もあります。彼以後、Fendt一族は18世紀末から19世紀半ばにかけて、ロンドンの有力な製作者として活躍しました。