商品一覧

VC BOW VIGNERON WORK SHOP
VC BOW VIGNERON WORK SHOP
VC BOW VIGNERON WORK SHOP
VC BOW VIGNERON WORK SHOP

VC BOW VIGNERON WORK SHOP

商品詳細

制作地
France
状態
Good

備考

国内一般にはあまり知名度はないけれども、知る人ぞ知る名器についてご紹介します。
第7回はヴィネロン(VIGNERON)です。

Joseph Arthur Vigneron(ジョゼフ・アルテュール・ヴィネロン 1851-1905)は19世紀後半に活躍した弓製作者です。Mirecourt(ミルクール)に生まれ、後にパリに出て当時の一流の製作者や演奏家と交流し、自らの新しいスタイルを築きました。19世紀以降現代に至る他の弓と比べて、彼および彼の息子が作った弓は卓越した性能を持っており、演奏家や愛好家達から極めて高く評価され続けています。また弓製作者にとっても、機能性を重視した新しい工夫、短い人生の中で優れた作品を多く残した旺盛な製作ぶり等はとても刺激的です。
Joseph Arthur Vigneronの手早い仕事、高度な技量と仕事に対する堅実な倫理観は、丹念に作られ一貫した特長を持つ多くの弓を残しました。息子Andreは父の技術を受け継ぎ、ベース弓でさらに発展させました。

1851年7月31日、Joseph Arthur VigneronはMirecourt(ミルクール)に生まれました。父親は彼がまだ赤ん坊の頃に亡くなりました。彼の母親は1857年にClaude Nicolas Husson(クロード・ニコラ・ウッソン 1823-1872)※と再婚。Hussonは自ら工房を構える弓製作者で、多くの製作者を育てました。その中にはVigneronより5歳年上の実子Charlesや、1歳足らず年長のJoseph Alfred Lamyがいました。
Vigneronが義父の下で見習いを始めた時、弓製作者Lamy一族の育ての親でもある父親の下で働くことができたので、VigneronとLamyは同じスタイルの仕事を学びました。Vigneronは1872年に義父Hussonが亡くなるまでそこで働きました。Vigneronが20歳の頃です。義父の死後、彼はJean Joseph Martin(1837-1910)※の工房へ働きに出ました。Vigneronは、Hussonに次いでりMartinという二人の卓越した製作者によって17年間に渡る指導を受け、ミルクール派の特色の一つである迅速で能率的な製作方法を身につけました。
ミルクール派の状況は1870年代に大規模な工場が台頭することによって変化していきました。その変化は小さな工房が生き残ることを難しくしたのです。1880年、Vigneronはミルクールを後にし、パリに出てGAND&BERNARDELの工房に弓製作の職を求めました。興味深いことに、同じ頃、彼の義兄Charles Hussonは彼自信のビジネスを立ち上げるためにGAND&BERNARDELの工房を去っています。彼はパリでVuillaumeやVoirinのスタイルに影響を受けました。
Vigneronは雇われ職人として20年以上働いた後、1888年にパリで独立しました。彼が工房を構えた場所はパリ・オペラ座とコンセルバトワールの近くでしたが、この地域には弓や楽器の製作者が数多くいました。(若きVigneronはJoseph Alfred Lamyから影響を受けましたが、Lamyのパリ工房は200メートルもないところにありました。)Vigneronは死ぬまでパリで活動し、彼の息子Andreに弓製作を教えながら親子共同で働き、パリの外れに2つ目の家を持つまでに成功しました。1905年、Vigneronはこの2つ目の家で亡くなりました。

Joseph Arthur Vigneronの新しい作風は同時代の弓製作者達に大きな影響を与えました。
1870年頃、フランスの弓製作者達は、Tourte-Peccatteスタイルから離れ、F.N.Voirinが主導した新しいスタイルに追随し始めていました。Voirinが行った変革は専ら様式的なもので、「より女性的」と評されるようなヘッドとフロッグをより軽くて丸みを帯びたものに美しく成形するというようなものでした。しかし、弓の奏法に直接影響を与える変革もいくつかありました。際立った変革として弓の反り具合があります。Voirin後の弓において、弓のカーブはヘッドの直後から3分の1に集中しています。Voirin以前は、弓の3分の2の場所にカーブが集中しています。さらに付け加えると、Voirinの弓ではヘッドとフロッグの高さがVoirin前よりも低くなっています。
Vigneronの弓はある点でVoirin前と後の考え方の組み合わせです。中央部からグリップ付近にかけての反り具合は、ほとんど全ての弓のでVoirin前を彷彿とさせます。しかしながら、ヘッドとフロッグの高さはVoirin後の弓と同様低いのです。Vigneronの弓はその世紀に作られた他の弓よりも少しだけ強度があります。しかしSartoryやE.A.Ouchardなど次の世代の製作者が作る弓ほどは強くありません。反りのなさは彼の弓をVoirin前の時代のものにより似た感じにしていましたが、形を変えたフロッグとヘッドの高さと、丸みを帯びた三角形の断面により弓の安定性が増したのです。

Vigneronの仕事ぶりで特筆すべき点は、その素早さです。それは彼がミルクール時代に受けた訓練と経験の賜物です。(当時の労働者は出来高に応じて支払いを受けており、手が早い者は標準より良い生活をしていたのです。)Vigneronは1日に1本の弓を作ったと言われていますが、実際は弓6本毎にまとめて1週間で完成させたのだろうと思われます。迅速な仕事をしながらも、そこには雑なものは一切ありません。彼の仕事の素早さは、非常に確かな腕と、どのようにして良いものを作るかということいついて確固たる考え方が一体となったものによります。彼の仕事は確実で首尾一貫したものでした。これによる安定した性能により、彼の弓は多くの演奏家から大変愛されることになりました。
一方、彼は弓外見を繊細で美しく仕上げる高い技術も持っていましたが、ほとんどの弓では美的な仕上げを施しませんでした。彼は現場の演奏家達のために機能的かつ実用的な弓を作ることに最も力を注ぎましたが、美的な細工についてはあまり気にとめていなかったようです。

Andre Vigneron(アンドレ・ヴィネロン 1881-1924)はJoseph Arthur Vigneronの息子です。1881年9月19日に生まれました。彼が12歳頃、父に弟子入りしました。1905年に父Vigneronが亡くなるまでの10年間余り、Andreは父の傍で良い経験を積みました。父親が亡くなった後、Maisons Alfortの工房を引き継ぎましたが、1924年に43歳の若さで病没してしまいました。Andreは、自分の力で一本立ちした優れた製作者でしたが、父親の業績のせいで影が薄いところがあります。しかし、彼のベース弓には父親の作品より優れたものが多く見られます。

Andreの仕事は高く評価されていますが、彼の父ほどではありません。例外はベース弓です。フランス式のベース弓は父Vigneronの死後に至っても規格化されていませんでした。当時、ベース奏者Eduard Nannyはパリで有名な演奏家兼教師になっていました。Nannyは製作者Fetique一族と共にフランス式ベース弓を開発していました。Andreのデザインは新しい局面をもたらしました。特に長さの規格についてです。Andreのベース弓はFetiqueのものよりもわずかに延長されており、現代の演奏家にも合ったものです。またフロッグの高さは低く、ヘッドのトップは中間部よりも広くなっています。

Vigneron親子の弓はスティックの断面が独特の形で形成されていますが、それが弓の性能を向上させました。その断面は丸くもなく八角形でもありません。丸みはありますが底部に角があります。これによりスティックの重心が下がり安定性がより増した一方、重量増を避けることができました。また硬すぎることもなく、よりしっかり安定したものになりました。この形は父Vigneronによって最初に考案されたものですが、さらに洗練させ、ベース演奏の発展に応えたのはAndreでした。この形状こそ、Vigneron親子が行った改革として最も良く知られているものです。

父Vigneronは、有名なバイオリニストであり教育者でもあったLucien Capetとの共同作業を通してこの形を開発しました。彼らは、共同開発した弓に関するビジネス上の合意文書を作りました。父Vigneronによるバイオリン弓には「modele Lucien Capet」とスタンプされたものがあります。バイオリン弓の断面形はベース弓でも似た形で利用されましたが、底部の角は丸みを帯びています。
Andreは父の死後もCapetと職業上の交際を続け、彼独自の「modele Lucien Capet」を生み出しました。それは標準サイズの弓よりもスティックが約1cm長いものでした。Andreはベース弓でもこの断面を適用しましたが底部に角を残しました。

参考文献:「The Strad」 2007年8月号P34-38 他


Claude Charles Nicolas Husson(1823-1872)
ミルクールやパリの若い職人を沢山雇い、その職人達を育てると同時に弓製作の発展に大きく貢献しました。同時期にBAZIN一族が弓製作の発展に大変力を入れていたので、両家はお互いに協力し合うとともに、後世に、若くて実力のある職人の育成に努めました。

Jean-Joseph Martin(1837-1910)
幼少時に父親をなくし、苦労を重ねて弓製作者になりました。Mirecourtで徒弟期間を勤め上げ、パリに出てVuillaume工房で技術を完成させ、1863年にMirecourtに戻り独立。多くの弟子を育てました。

Joseph Alfred Lamy(1850-1919)
優れた製作者を複数輩出したLamy一族でも最も高く評価されています。ミルクールに生まれ、幼少時より弓製作の修行をしました。1876年頃、Francois Nicolas Voirin(1833-1885)の工房に入り、師匠Voirinの死後に独立。1889年頃にEugene Nicolas Sartoryが弟子入りしています。

Francois Nicolas Voirin(1833-1885)
Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の従兄弟にあたり、Vuillaumeの工房で指導的役割を果たしていました。Charles Francois Peccatte(1850-1918)などを教育指導し、弓製作の歴史に大きな足跡を残しました。彼自身も非常に高度な技術によるすぐれた作品を数多く作りました。またFrancois Xavier Tourte(1748-1835)をはじめとする巨匠達の名品を研究し、忠実に再現したコピーを作成したことでも有名です。

Victor Francois Fetique(1872-1933)
Charles Louis Bazin(チャールズ・ニコラス・バザン 1847-1915)の工房で修行しました。大勢の弟子を育て、フランスの最も素晴らしい職人に送られる「Une des meilleurs ouvriers de France」を受賞しました。