備考
Joseph Alfred Lamy (1850-1919)
(ジョゼフ・アルフレッド・ラミー)
優れた製作者を複数輩出したLamy一族の中で最も高く評価されています。ミルクールに生まれ、少年時代にClaude Charles Nicolas Husson(クロード・シャルル・ニコラ・ウッソン)の工房に徒弟に入り弓製作の修行をしました。その頃、同じ工房にClaude Charles Nicolas Hussonの息子Charles Claude Husson(1846-c1915)やJoseph Arthur Vigneron(ジョゼフ・アルテュール・ヴィネロン)がおり、一緒に修行しました。1868年頃、パリ郊外シャトー・ティエリー(Chateau-Thierry)のPierre Louis Gautrot(ピエール・ルイ・ゴートロ)の工房へ移り、そこでJoseph Voirin(ジョゼフ・ヴォアラン)と出会いました。
1876年頃にパリに出て、Francois Nicolas Voirin(1833-1885)の工房に入り、師匠Voirinの死後に独立。1889年頃にEugene Nicolas Sartory(ユージーン・ニコラ・サルトリー)が弟子入りしています。彼は19世紀から20世紀にかけ活躍した偉大な弓製作者の1人です。弓製作史上ではVoirinとSartoryを繋ぐ極めて重要な役割を果たしました。
なお、彼には5人の子供がいましたが、弓製作者になったのは三男Hippolyte Camille Lamy(1875-1942)と、末っ子Georges Leon Lamy(1881-1915)の2人だけでした。弓製作者としてのLamy一族を代表する父親に対して、三男Hippolyte Camilleは長男、末っ子Georges Leonは次男と称されています。
【名前の背景】
フランスの弦楽器製作者や弓製作者の家族の間では、同じ名字と姓を共有するのが一般的で、ラミー家も例外ではありませんでしたが、他の家族ほど混乱することはありませんでした。
ジャン ジョセフ ラミー (1813 – 1886) には息子が何人かいましたが、そのうち 3 人の名字はジョセフでした。彼はバイオリン界の主要人物というよりは、時々バイオリン製作をしていましたが、LAMY の名を本当に確立したのは、特に弓製作者としての彼の息子と孫でした。
この息子たちの次男が本作品のJoseph Alfred Lamy (1850-1919)になります。
甥の弓職人 Alfred Lamy(1886-1922)と混同しないように注意しましょう。
Hippolyte Camille Lamy(1875-1942)
Aisneで生まれました。15歳頃より父Joseph Alfred Lamy(1850-1919)の工房で本格的な修行を開始し、20歳頃には父親の助手として働いていました。1905年頃より独自のスタイルを徐々に追求し始めました。1910年に戦争で召集され製作活動を中断。召集解除後、父親の工房に戻りました。1919年、父親の死去により彼が工房を引き継ぎました。1830年頃、50歳台後半に入るにつれて視力が低下してしまい、作品にも影響が現れ始めているとされています。
彼は、夭逝した弟と異なり、独自の作風による作品を多く残しました。その評価は概ね父親のそれに次ぐものとされています。
Georges Leon Lamy(1881-1915)
1881年、パリで生まれました。兄Hippolyte Camille Lamyと共に父親の下で修行。その後、父の工房で助手として製作活動を続けました。1914年に第一次世界大戦で召集され、1915年に34歳で戦死しました。彼は生涯独身のままでした。彼の作品は父親のものと非常に良く似ており、共同作業で製作したものも多く、また父親の刻印のみを使用しました。若くして亡くなったことで作品が非常に少ない上に、このような事情で彼の手になるものも大部分が父親の作品と認識されてしまっているようです。
Alfred Lamy(1886-1922)
弓製作者Joseph Jean Baptise Lamyの息子。Joseph Alfred Lamy(1850-1919)の甥です。Charles Nicolas Bazin II(1847-1915)の工房で修行を開始。1901年、NancyのJacquot工房で働きました。1906年、Eugene Cuniot(1861-1910、通称CUNIOT-HURY)の工房へ移りました。1911年、CUNIOT-HURY工房から独立。1914年、戦争で召集され、毒ガスで負傷してしまいました。毒ガスの後遺症により帰還後も健康が回復せず苦労したようです。1919年頃には自分の工房を構えていたようですが、健康問題もあって商売はあまりうまくいかず、Laberteの下請けなどをして生活していたようです。1922年、36歳で夭逝しました。
彼は非常に少ない作品しか残せませんでしたが、残存するものは非常に丁寧に仕上げられた高品質のもので、高く評価されています。