備考
証明書 : Stepan Soultanian
"GUARINI"と刻印されています。1890年頃、Eugene Cuniot(CUNIOT-HURY)工房で製作されたものだと思われます。フロッグはビヨームスタイルです。このスタイルのもので日本国内に現存するものは珍しいと思います。
状態は完璧。重量は60gで標準的。良い材料を使用しています。コシは強め。バランスが良く弾きやすい弓です。女性や小柄な方にお薦め。
Emile Mennesson(1842-1920、エミール・メネッソン)
"GUARINI"(ガリーニ)という名称で知られています。フランス北東部のマール(Marne)県のランス(Reims)市で 生まれ、同地で亡くなりました。彼は、ランスで楽器商ならびにピアノ製作をしていた一族の出身です。職人の世界に第一歩を踏み入れている間も、彼は家業を続けました。バイオリン属の弦楽器への強い興味をずっと育てていました。何本かの修理された楽器の内部に記された彼のサインを見ることができます。
ランスのバイオリン製作者にして専門家であるWilliam Bradbridge氏によれば、彼はキャリアの初期、比較的短期間ではありましたが、個人でバイオリンを主に作りました。確実なのは、彼がミルクールと密接に関わっており、そこを定期的に訪れていたことです。そこで彼は徒弟修業を終え、 "GUARINI"という名前の職人としてのペンネームを得たとBradbridge氏は語ります。
再照合したところ、バイオリン製作者にしてミルクールの弦楽器製作史の専門家であるRoland Terrier氏は、Emile Mennessonが1870年のミルクールでの生産工房創設に関係していたと教えてくれました。1875年頃、Jean Joseph Martin(1837-1910、ジャン・ジョゼフ・マルタン)は、ミルクールのヴァリアージュ通り(Rue du Baillage)に本部を置く職人組合を創設する考えを持っていました。これは、いくつかのバイオリンと弓製作工房を結集し、そこでは全ての弦楽器と付属品が低価格で提供される、一種の協同組合です。
Emile Mennessonはこの組合の幹事であり、初期の頃、彼の工房は組合に加盟していました。組合理事(指導者)としてJean Joseph Martinは職人の強力な集団を作り上げました。組合に加盟した職人には、彼の義兄弟も含め、AugusteとNicolas Mangenot、Gabriel Voirin、Georges Deroux(?-?、ジョージ・ダーク)らがいました。おそらく、Georges DerouxがEmile Mennessonを弦楽器製作の道に招き入れたのでしょう。この組合は、破産宣告された1880年1月まで続きました。
Rene Vannesにならって、Emile Mennessonは1880年に彼の製作工房をランスへ移し、Georges Derouxが後に続いたとも考えられています。この見方は、Emile Mennesson氏の製品は全てミルクールで作られたものだとする人のために、Rolland Terrier氏と論争になっています。
Emile Mennessonは、楽器商としてのビジネスの傍ら、本当の製作工房を1880年に設立しました。それはGeorges Derouxの協力を得るための企てでした。
William Bradbridge氏によれば、1919年にランスの音楽院(the Conservatory of Reims、1914年から1918年に渡った戦争中に破壊された)がカルノー通り(rue Carnot)に引っ越しました。Emile Mennessonの工房(やはり戦争で破壊された)は、新しい音楽院の前の仮住所に移動し、販売業務のみを続けました。工房は1930年代まで活動していました。Emile Mennessonの息子Jean Mennessonが1919年に父の工房を継いだようです。
弓については、別の工房に作られたものに" GUARINI"という刻印が押されています。それらの中にはEugene Cuniot(CUNIOT-HURY)やJean Joseph Martin(1837-1910、ジャン・ジョゼフ・マルタン)の工房で作成されたものもあります。