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Charles Peccatte School

Charles Peccatte School

商品詳細

制作地
Paris / France
制作年
c.1890
モデル
Vuillaume
サイズ
4/4
重量
62g
弓形状
Round
商品番号
VNB44-00028
状態
Mint

備考

証明書 : Andreas Woywod
弓の最高峰Dominique Peccatteの甥で、Francois Peccatte の息子。彼はPeccatte Family であるが、F.N.Voirin, A.Lenobleなどからも多大な影響を受けたため、Peccatte型のヘッドより、柔らかなイメージを持つ弓を製作した。最高級フレンチ・ボウのひとつである。


Francois Peccatte(1821-1855、フランソワ・ペカット)
1821年、ミルクールで生まれました。1855年にパリで夭逝しました。非常に才能がある卓越した弓製作者でした。作品は兄Dominiqueと良く似たもので、均整のとれた美しいもので高く評価されています。彼の最高の仕事の多くは、兄の強い影響を示しています。彼は弓製作者になるべく運命づけられていましたが、自身の技術の頂点を極める前に34歳という若さで亡くなりました。
父親は美容師だったJean-Francois Peccatteで、11歳年長の兄は巨匠Dominique Peccatte(1810-1874、ドミニク・ペカット)です。Charles Francois Peccatte(1850-1918、シャルル・フランソワ・ペカット)はFrancois Peccatteの息子です(5人の息子のうち、彼だけが弓製作者になりました)。
彼は、弓製作を始めた頃の短期間、兄Dominiqueを頼ってパリに行き、兄の工房で働きました。その後、1842年頃にミルクールに戻り自身の工房を開きました。工房では職人を何人か雇っていました。兄Dominiqueが1847年にミルクールに戻った後も、彼は兄と部分的に共同関係にありました。
彼はミルクールで働く優秀な製作者でしたが、若くして死ぬ少し前にパリに戻りました。1851年にパリに一家で移住し、翌1852年にJ.B.Vuillaume工房で働き始めました。1853年には工房を出て、独自に製作活動を行うようになり、時々ミルクールに戻り販売も行っていたようです。J.B.Vuillaume工房時代のものは他の製作者のものと判別が難しく、また再独立後の作品にはやや品質が低下していたものもあるようです。

Charles Francois Peccatte(1850-1918、シャルル・フランソワ・ペカット)
父Francois Peccatte(1821-1855)は19世紀の弓製作の巨匠Dominique Peccatte(1810-1874)の弟です。父は弓製作において兄にひけをとらない才能を発揮し、兄の工房で共に製作活動を行いましたが34歳で夭折しました。そのため叔父Dominique Peccatteの影響を強く受け、兄弟の中でただ一人弓製作の道に入りました。
ミルクールに生まれましたが、彼が生まれた翌年に一家はパリに移住。父が亡くなった後、一家は経済的に困窮したようです。彼の少年時代、弓製作者Auguste Lenobleが義父となり、彼は義父の下で修行を開始しました。間もなく15歳で、Jean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の工房に弟子入りしました。叔父Dominique PeccatteがVuillaume工房で働いていたことがあった縁もあったようです。彼はこの工房で指導的な役割を果たしていたFrancois Nicolas Voirinから指導されて急激に才能を開花させました。20歳になる頃から数年間、兵役に出たり他の仕事をしたりして弓製作のペースが落ちたり、義父に半ば利用されるような形で義父の工房で働いたりしていたようです。母が亡くなったタイミングで義父と絶縁した頃から彼の技術が認められるようになりました。30代半ばからは複数のコンクールで受賞するようになり、以後、1918年に亡くなるまで高品質の弓を大量に作り続けました。Eugene Nicolas Sartory(1871-1946)が彼の工房に出入りして時期があったことも知られています。

Dominique Peccatte(1810-1874、ドミニク・ペカット)
Frabcois Xavier Tourte(1748-1835)と並ぶ19世紀の巨匠です。1810年、鬘職人の長男としてミルクールで生まれ、12歳頃から美容師の修行を始めましたが、じきに弦楽器製作の興味を持つようになりました。
1826年頃、パリに出て、当時のフランスで弦楽器ならびに弓製作で指導的な役割を担っていたJean Baptiste Vuillaume(1798-1875)の工房に入り、弓製作の修行を開始しました。弓製作の技術指導は同じ工房にいたJean Pierre Persoit(c1783-1854?)がVuillaumeより依頼されて行いました。彼は才能を発揮し、急速に技術を身につけました。その才能は非常に高く評価され、1830年にVuillaumeの金銭的支援で兵役が免除されたほどです。
1839年頃、Vuillaume工房から独立し、Francois Lupot Ⅱ世(1774-1838)の工房を継承しました。1841年に弟Francois Peccatte(1821-1855、フランソワ・ペカット)がパリに出てきて、彼の工房で働きました。この頃には、彼の工房は繁盛し、商売は成功していました。
1847年、彼は工房を同僚Pierre Simon(1808-1881、ピエール・シモン)を譲り、パリを出てミルクールに戻りました。ミルクールでは弓製作と、父親が遺した葡萄園での農業に従事。その後、製作量も質も少しずつ低下していったようですが、高い評価は保ち続けました。1874年に亡くなりました。