備考
証明書 : Stepan Soultanian
NURNBERGER一族の製作者の多くが、自分の作品に"Albert Nurnberger"の刻印を押しました。一族の作品は、初期のものの方が後代のものよりも優れています。一族の作品の中には、工房の違い以上に多様なものがあります。 Franz Albert Nurnberger Ⅰ(1826-1894、フランツ・アルベルト・ニュルンベルガー) Franz Albert Nurnbergerは、マルクノイキルヘンの弓製作者で重要人物の一人です。しかし、彼の作品を識別するのは非常に難しいとされています。 弓製作者としての訓練を、父Karl Gottlieb Nurnberger(1793-1868、Christian Gottlob Nurnberger。Johann Georg Nurnbergerの息子。1824年に弓製作業を始め、弓製作者一族Nurnberger一族の創始者です)よりうけました。 一族の記録によれば、父Christian Gottlob NurnbergerはC.W.Knopf工房で修行したようです。早くも1823年に、Christian Gottlob Nurnbergerはマルクノイキルヘンの住所録に弓製作者として登録されています。彼は弓製作者の名門一族"Nurnberger"の創始者として認められています。 Franz Albert Nurnbergerが最初に住所録にあらわれるのは1853年で、その後、1888年に弓製作者組合の主要リーダで創設者の一人として記録されています。彼はBauschの下で仕事を学んだと推定されています。マルクノイキルヘンで弓製作学校を創設し、そこで25年間に渡って教えました。 Johann Christoph Nurnberger (1839-1899) Franz Albert Nurnberger Ⅰ世の息子。VuillaumeやPhilipp Paulの工房で5年間働き、1897年にマルクノイキルヘンで自身の工房を構えました。 Franz Albert Nurnberger Ⅱ(1854-1931) Franz Albert Nurnberger Ⅰ世の息子。父の下で修行し、父と共にマルクノイキルヘンで働きました。1880年頃に自身の工房を開きました。彼の工房は当時のドイツで最高の弓を製作しましたが、その作品はフレンチモデルに基づいたものでした。最も良く用いたのがTourte、Vuillaume、Voirinモデルでしたが、James Tubbsの優れたコピーも作りました。彼の代で"Albert Nurnberger"ブランドが確立したと言って良いでしょう。 彼はドイツ最高の弓製作者であると高く評価され、世界で最も傑出した弓製作者の一人になりました。Albertとして知られ、Nurnberger一族の中で最も偉大な製作者でした。 第一次世界大戦前(そして大戦後から彼が亡くなる1931年までも同様)に、NurnbergerはW.E.Hill & Sonsと並び競い合う規格となり、世界最高の弓製作工房となっていました。David OistrakhやFritz Kreislerを初めとした巨匠達も、彼の弓を愛用しました。 彼のブランドは息子であるKarl Albert Nurnberger(1885-1971)によっても用いられました。 現在、彼の弓には非常に高い人気があります。1931年以前に作られた彼ののオリジナルは貴重かつ高水準の品質で、高い価格がついています。 H.Robert Nurnberger(1862-?) Franz Albert Nurnberger Ⅰ世の息子。Karl PfretzschnerならびにベルリンのTh.Heberleinの工房で働きました。