ストラディブログ
欧羅巴徒然紀行
November 6, 2008

番外編・社員旅行-タイその1 2008.09.30-10.04

2008年10月、恒例の社員旅行でタイへ行ってきました。
今回の社員旅行、私はアユタヤ遺跡を見たかったし、若い社員達は本場のタイ料理を食べてみたいということでタイになりました。しかし、現地は政情不安。旅行先を変更すべきではないかと夏前より情報収集し旅行代理店と慎重に相談を重ねました。結果、バンコク-アユタヤの観光地については問題ない(2008年10月時点)ということになり計画通り社員旅行を実施しました。
現地では、流暢な日本語を操るガイド氏の案内で危険なところへは近づきませんでしたので特に不安は感じませんでした。旅行者が出歩ける範囲では、警察・機動隊や軍が目立った警備をする場所もなかったようです。しかし、日本人観光客が少ないように感じました。一方でロシア人観光客が目立ちました。少し前まではビジネス目的のロシア人が多かったそうですが、今は観光客が増えているそうです。政情不安が海外へ報道された頃以後、日本人が一番減ったとか。これは通訳ガイド氏経由で露店主から聞いた話。
日本では初秋ですが現地の湿度は70〜80%で、空港を出た途端に蒸し暑く感じました。日本では、タイ=「ほほ笑みの国」という穏やかな観光地イメージが一般的なのでしょうが、実際に見てみると生活水準が他の東南アジア諸国よりは明らかに劣っているように感じました。主要道路の看板から推測するに日本企業の進出は結構あるようで、街を行く車も日本車が多い(韓国車が多い北京とは対照的)のですが、以前に訪問したシンガポールとは明らかに異なった雰囲気です。民族風土や文化の差あるいは昔からある経済格差というものではなく、「(アメリカ式)グローバリズム」に乗れているか否かというもの。(アメリカ式)グローバリズムの破綻が誰の目にも明らかになった今となっては、私が感じた印象はタイにとって悪いことではないのかも知れません。ただ、タイという国家が特に軍部を中心にアメリカと密接な関係を持ってしまっていますから、今後どうなるか素人には全くわかりせんが。

アユタヤ(Ayutthaya)遺跡・ワット・プラ・マハタート(Wat Phra Mahathat)。
ワット・プラ・マハタートは、1374年にアユタヤ朝3代目のボロム・ラチャンラット一世が釈迦の聖骨を納めるために建てた寺院建造物群の遺跡です。アユタヤの代表的な遺跡の一つとして世界的に有名。クメール様式(トウモロコシ状の塔に見られる)やスコータイ様式が入り混じっているそうです。トンポ(菩提樹)の根に埋め込まれた仏頭が有名。2代目ラーメスアン王が建てたとする説もあり、未解明の謎が残る遺跡です。

同じくワット・プラ・マハタート。社員旅行に同行した妻とともに。ビルマ軍により徹底的に破壊されてしまった上に年月による風化が重なり、ご覧の状況です。仏像は全て頭部を切り落とされてしまっています。仏像の多くは金箔で覆われていたそうですが、戦乱により全て剥ぎ取られてしまっています。ちなみに背後の仏像(前画像と同じ)の頭部は復元されたもの(他にも1体復元されているそうです)。1956年に大規模な修復が行われました。最近では、仏像頭部の破壊を行ったのはビルマ軍ではなく、窃盗目的で盗賊が持ち去ったという説も出てきているそうです。

ワット・プラ・マハタートからワット・ラーチャブラナ(Wat Ratchaburana)の塔を望む。
ワット・ラーチャブラナは1424年、8代目ボロムラーチャー2世が建立したと伝えられているそうです。

ワット・プラ・マハタートの有名な仏頭。トンポ(菩提樹)に埋没しています。戦乱で切り落とされ地面に落ちた仏塔が、木の成長とともに木に取り巻かれながら持ち上げられたとのこと。ちなみに、この仏頭は今も現地の人の信仰の対象となっていて、この仏頭と並んで記念撮影をする場合は仏頭より頭が低くなるよう座って行うよう各国語で書かれた注意書き(もちろん日本語もあり)がありました。他にも仏頭がない仏像の背後から頭を出して撮影したりふざけたりしないように注意する看板も要所要所にありました。仏教が人々の生活に強く根付いているタイらしい光景だと思いました。(宗教心の有無はともかく、歴史遺産や美術品を尊敬すべきだという点で「生首」的記念撮影はNGでしょう)

ワット・プラ・マハタートの一角で咲いていた花。アユタヤ王朝の栄華を偲ぶかのようでした。

ワット・プラ・マハタートの塔。トウモロコシ状のクメール様式のようです。右奥にはスコータイ様式とみられる塔が見えます。(このあたりは現地ガイドさんからの受売りなので間違っているかも知れません・・・)このように、アユタヤ遺跡は時代ならびに時々の文化により異なる建築様式が混在していて見飽きません。素人目にも全然異なる建築様式が共存している様子は不思議なのですが、独特の調和があって感銘を受けました。

ワット・プラ・マハタートの説明板。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン(Wat Yai Chai Mongkon)。
1357年に初代ウートン王がセイロンに留学中の修行僧達の瞑想のために建てた寺院。中央の仏塔は1592年に建てられ、高さ72メートル。アユタヤ朝に現存する建築物としては2番目の高さ。アユタヤ朝19代ナレスアン王が象に乗っての一騎討ちでビルマ王子に勝った記念に建造されたそうです。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコンの周辺。
仏塔の周りには、黄色い衣装を身に着けた数十体の仏坐像が囲んでいます。これらは20世紀になって作られた新しいものだそうです。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

ワット・ヤイ・チャイ・モンコンは今は寺院としても使われているそうです。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン。

ワット・ヤイ・チャイ・モンコン内の寝釈迦仏像。
アユタヤ遺跡に残る寝釈迦仏像としては他に、高さ5m・全長28mの白い巨大像ワット・ロカヤ・スタ(Wat
Lokaya Sutha。ワット・プラ・スィ・サンペット近くにある)が有名です。天井のある仏堂に安置されていたそうですが、ワット・ロカヤ・スタは仏堂も含め建物がほぼ完全に破壊されてしまったため野ざらしになっています。

クンペーン・ハウス(Khun Phan House)。アユタヤ朝の高床式住宅を復元したものだそうです。

ウィハーン・プラ・モンコン・ポピット(Wiharn Phra Mongkhon Bopit)の礼拝堂。
ワット・プラ・スィ・サンペットの隣に位置します。

ワット・プラ・スィ・サンペット(Wat Phra Si Sanphet)。
1491年建立。セイロン様式の仏塔が往時の栄華を偲ばせるアユタヤ最大規模の寺院で、アユタヤ朝の守護寺院であったそうです。歴代の3人の王の遺骨が現在も眠るタイのもっとも重要な王宮建物です。王宮としても使われていましたがビルマ軍によって徹底的に破壊され、現在はこの仏塔3基がかろうじて形を留めています。周囲には破壊された王宮跡がひろがっています。

ワット・プラ・スィ・サンペット。相似形の3基の仏塔それぞれに王の骨が埋葬されているそうです。

礼拝堂。

ワット・プラ・スィ・サンペット近くに咲いていた花。アユタヤ遺跡でよく見かける白い花で、良い香りがします。ラントンム(Rantomm)という名前だそうです。「悲しみの花」という意味で、寺院によく植えられているとのこと。

ウィハーン・プラ・モンコン・ポピット(Wiharn Phra Mongkhon Bopit)。
金色のブロンズ像は本尊のプラ・モンコン・ポピット仏で高さ17m。1538年建立。タイ最大級の仏像です。当初は露天に設置されていたのですが、1603年に現在の場所で屋根がつけられたそうです。ビルマ軍に破壊されてしまいました。1951年の大修理時(頭部と右腕が大きく損壊していたそうです)の調査で体内から100体の小仏像が発見されたそうです。1992年には黒漆を塗り金箔が塗り直され、現在の姿になりました。仏像同様、建物もビルマ軍により破壊され廃墟になっていましたが、1956年、ラーマ5世やビルマの寄付で再建されたとのこと。

トゥクトゥク。
正式にはサムローとよばれるそうです。サムローはタイ語の単語で三輪自動車(オート三輪)を意味します。トゥクトゥクは俗称。この俗称の由来は、その排気音がトゥクトゥクと音を立てているからという説が有力だそうです。日本郵政省が郵便収集車として使用していたダイハツの三輪トラック「ミゼット」が引退した際、それらミゼットをODAとしてタイに輸出しました。元郵便収集車の中古ミゼットが改造されて、トゥクトゥクの形ができたそうです。
近年になってエアコンがあり、明朗料金のメーター制タクシーが運行を開始したこと、タイ政府が2002年にバンコクでのサムローの新規登録をうち切ったことにより、バンコク市内の車両数は大幅に減少したとのこと。

象乗り場。
アユタヤには観光用の象がたくさん飼われていて、象の背中に乗ってアユタヤを観光することができます。

もちろん、私たちも乗りました。近くで見る象はやはり大きくて最初は少し怖い感じもしましたが、乗ってみると意外と快適。高い場所から見るアユタヤの光景を楽しむことができました。

象使いの人。記念撮影にきさくに応じてくれました。

象乗り場にて。後ろで私を見つめているのは子象です。

タイ国王陛下ご夫妻の肖像。現在のタイ国王はラーマ9世プーミポン・アドゥンラヤデート陛下(1927-)です。タイ王国のチャクリー王朝の9代目、アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジに生まれ。ラーマ5世の69番目のご子息・ソンクラーナカリン王子殿下が父。英語や日本語では一般に長母音を無視しKing Bhumibol (プミポン国王)と通称されますが、現地ではこの略称は一般的ではないそうです。プーミポンアドゥンラヤデートとは「大地の力・並ぶ事なき権威」という意味とのこと。2008年現在、世界で最も在位期間の長い国王であり、タイ史上においても稀にみる長期間王位に就いておられます。タイの王室は国民から篤く敬愛され、あちこちに国王陛下の肖像が掲げられています。ただ何故か若い時の肖像ばかりのようでした。

夜のアユタヤ。アユタヤ遺跡は夜間ライトアップされており、とても幻想的でした。

アユタヤの歴史1アユタヤは、1350年頃にタイ族・アユタヤ王朝の都として築かれました。チャオプラヤ(メナム)川中流の沿岸にあり、東西約7km、南北約4km。チャオプラヤ(メナム)川、パーサック川、ロッブリー川に囲まれた島状の街です。水運とチャオプラヤ・デルタの豊かな平原により古代から繁栄した地域にあたります。アユタヤ王朝期には近隣だけでなく中国、ペルシャ、さらにはヨーロッパとも交易を結び、最盛期には当時の東南アジア最大の都市へと発展しました。
タイ族は、もともと中国の雲南省近辺で暮らしていたそうです。後にモンゴルの中国進出を受けて南へと移動しました。当初はアンコール朝の支配下に入りましたが、アンコール朝が衰亡に向かった13世紀頃、タイ北部にスコータイ王朝を建国。後にスコータイ王朝の弱体化により南下した一派が、1351年、ウートーン王(ラーマーティボディー1世、ワット・プラ・ラームが菩提寺)を掲げてアユタヤ王朝を建てました。
当時の東南アジアでは多数の国や都市国家が群雄割拠していました。アユタヤ王朝は、北にスコータイ、東にクメール、南にマラッカ王国、西にビルマと、四方を強国に囲まれていました。1362年、アユタヤ王朝はクメール王朝を攻めて領土を拡大、1438年にはスコータイを吸収し、東南アジア最大の国家となりました。
16世紀に入り、アユタヤ王朝はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスら西欧列強と通商条約を結びました。当時「シャム」と呼ばれたアユタヤ王朝は世界貿易によって大いに繁栄しました。アユタヤ王朝は日本とも御朱印船貿易による交易関係がありました。約1500人が住む日本人町も形成され、1612年に山田長政がやってきて後に傭兵隊長となり日本人町のリーダになりました。※日本人町の痕跡は残っていないそうですが、日本語の石碑はあるそうです。今回の訪問では残念ながら確認できませんでした。
※山田長政:家業の紺屋を継がず、沼津藩主の駕篭かきし、兵法を学ぶ無頼漢だったと伝えられています。23歳の時、地元豪商の船に便乗して台湾に密航、さらにアユタヤに渡りました。アユタヤで日本人町首領、さらに武官の最高位の官職を得ましたが、アユタヤ王朝の権力闘争の犠牲となって41歳で客死したそうです。

アユタヤの歴史2アジア各国が西欧列強により次々と植民地化されるなか、アユタヤ王朝は巧みな外交を行い独立を貫きました(18世紀から20世紀初頭=1945年以前、西欧列強による植民地化に対しアジアで独立を貫き通したのはタイ・アユタヤ王朝とチャクリー王朝、そして我が日本だけです)。しかし、1767年、ビルマの攻撃によってアユタヤが陥落し、35代400年に及ぶアユタヤ王朝は幕を下ろしたのです。アユタヤ陥落後、首都は、チャオプラヤ川下流(現在のバンコク)へ移転を余儀なくされました。アユタヤ朝の次にタイを統治したのが、現在も続くチャクリー王朝です。
クメール王朝を引き継いだカンボジアがフランスの植民地となり、アユタヤを滅ぼしたビルマがイギリスの植民地(保護領)となる情勢で、当時の国王ラーマ5世(King Chulalongkorn the Great、1853-1910、現王朝チャクリー王朝の5代目、タイ三大王の一人、1999年「タイム」誌の「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」の1人にタイ人から唯一選ばれた)は植民地化の策謀と圧力に巧みに抵抗し独立を守り抜きました。
「ほほ笑みの国」と称せられる仏教国タイは、その俗称が与える柔和なイメージに反して、西欧列強の侵略・植民地化に果敢に抵抗しきった誇り高き国家なのです。(ただし、中国・清朝の冊封体制には入っていました)
アユタヤ王朝の歴代王は上座仏教を信奉し、アユタヤに数多くの寺院や宮殿を建立しました。最盛期には、3つの王宮、100の門、400の寺院、1万体の仏像を有したと伝えられています。なお今日残っている建築物の多くは、都ができて150年の間に建てられたものだそうです。
スコータイは比較的穏やかで自由だったようですが、アユタヤ王朝はヒンドゥー教の影響を受けたクメールを真似て、王自ら神の化身を名乗ったそうです。独裁的な統治を行い、法や罰を厳格に適用しました。それは建築様式にも反映しており、建築や彫像の様式には定めれた数パターンが適用され、一方で民衆を圧倒するかのごとき絢爛豪華で厳かな表現が特徴だそうです。
いずれにせよアユタヤ王朝はスコータイとともにタイ建築ならびに美術の基礎を確立したという点で、アジア建築・美術史で非常に重要な位置を占めています。
ビルマ軍による破壊と、その後の荒廃によりアユタヤは廃墟となりましましたが、それでも多くの遺跡が残りました。20世紀後半に入り、遺跡の調査ならびに復元が少しずつ進められました。
1991年、古都アユタヤ遺跡はユネスコ世界文化遺産に登録されました。

最近の記事
December 4, 2019
September 20, 2019
August 22, 2019